昭和41年12月14日 朝の御理解



 昨夜御祈念の後に、丁度十三日会の後のまあだ雰囲気が残って居るような状態で、下のストーブの所で、あと残っておる方達が丁度一時、晩方もう一時というんでしょう、もう時計を見たら一時です。もうほんとに何時ものように、信心話でもしておりますと、時間の経つのも分からん位に、まあ世間の色々な話を頂いたんですけれども。その中に、私はあれを、私は話を聞いて、ま何と汚い事する人じゃろうか、そげな事でおかげが頂ける筈がないのにと。
 まぁどうして下作かことするじゃろうかと言う様な話を聞いたんですけれど。私本当に限りなく美しゅうなりましょうと、美しゅうなりましょうやと。その美しくなる為には、いよいよ本気で改まらなければならない、研いていかなければならない。そして美しゅうならなければならないと云うことですね。私共皆さんはご承知でしょうけれどもね。(むげざいめぐ)ち言われましたですね。(むげざぁねぐ)。そしたら寝なさる所へ、(      )入ってたです。
 そしてやっぱいや飲んだくれて、そして愈々計算ち言う時には、スレットその何処さんか行って、あん奴ばっかりは、もう(ねだがらねぐぜ)ちもう、ほうあれが来よるけん、もう飲むなち。もうあれが来よる時に、何でん食べ物出しどんするなて。確かに(にどでらねぶる)的なですね、私共はその心を私共の心から取り除かなければいかん。その事を気になりましてから、また昨夜の御祈念にもその事を御礼、本当に限りなく美しくならせて頂かなければならんのに。
 なんと汚いことを言うたりしたりするじゃろうかと思いましてね。その事を今朝、お願いさせて頂きよりましたらですね、おなあじ事、人間の心にそういう心が有るんだと神様仰るです。只、それがちょっとこう上に目が出ておるか出てないかと言う事です。只つつしんで、はぁこんなこっちゃ信心にならん、はあこげなこっちゃ下作か、こげな事じゃ人に汚いと思われちゃならんと思うて、自制しておる人と、それを平気で出して居る人とあるというだけの事だと。
 そしてあの柿の種を、二つにポンとこう割って見せて下さったんです、御心眼に。あの柿の種を二つに割りますと、中に小さい芽の出る、あんなんがありましょうが。厳密に、ほんなら、それを笑うたり、それをね、どうして汚か奴じゃろうかと言う前に、自分の心を一つ、洗濯してみれと。
 この柿の種と同じ事です。中には、みんなが、それがあるんだと。これが土の中にでも入ると必ず、そういう目が出てくるんだと、皆んながそういう立場になったら。ある娼婦を、皆が罵倒しておるところへ、キリストがやって来て罵倒したり石を投げたり、お前達はしておるけれども、その汚らしいとけがらわしいと、いわゆるその娼婦と言うて、お前だん蔑んでいるけれども、お互いの心の中に娼婦的心の無い者だけが、その石を持って打てと言った様な言葉を、キリストは言っておられますですね。
 お前達の心の底には、それがあるじゃないかと。それの無い者だけが、いうならば悪口を言うならば悪口を言え、石を持って打つなら石を持って打てとこう言うております。さぁ一切そうやってみると、誰にでもそういう心があるのだから、それをほんなら打つ資格の者は、悪く言う者は言う資格の者は、一人もなかったと言う事なんです。私共の心と云うものを厳密にです、あの人は美しい人じゃと、気のおけん人じゃと言うてもです、実際、それを割ってみるとです。
 中には矢張りそういう汚いものの芽が、ずうっと潜んでおると言う事。それがある場合の人は、それが目が出とる訳です。(いねがわねぶり的な)心が根性が。だからそういう心に本気に厳密に、その姿もやっぱり一生懸命その、卑い心を取り払おうと思うてですね、やっぱりその思うてもおるとです。所が愈々の時になってくると、愈々さぁ酒の肴が出るち言うと、もう先一番ぶり食べなきゃおられんち言うごたる風なものが出てくるだけの事なんです。
 さぁどうぞさぁどうぞ、いいや私はち言うて、慎んでおるものでも心の中には、もう手を出しておると言う事なんです言うならば。そしたらね馬をですね、馬小屋から一生懸命引っ張り出そうとしている訳です。一生懸命力を入れて。所がそのかんぬきを抜かんなりに、一生懸命引っ張りよるです。これが馬のお知らせはね、ウマウマというてですね、卑しい心と教えて下さる。
 そういう卑しい汚い心をです、はぁ信心ちゃこんなこっじゃいかん。こんなこっじゃいかんと思うて、それを一生懸命引っ張り出しよる。所が肝心要のかんぬきも抜かずして、引っ張ったんじゃ出りゃせん。そういう自覚に発たせて頂いたら、そんならそういうものを、愈々見やすうする。もう種そのものが無くなると言う事。これをまぁ生神の境地とでも言うか、金光大神の境地とでも言おうか。ほんとに有難いという時には、それがないのです。それを目指さなければいけん。
 人間じゃきこげなものは誰でも当たり前と言う様な事ではいけない。そこで私ここで思う事はですたい、矢張り中味にあってもです、形には現わさん慎みと言うものが、私は必要だと思うですね。ですから形に現すとあん奴は(ねぶり)じゃからと軽蔑される。と言うて、ほんならみんなにそれがあるんです。お互い信心をさせて頂いて居るのでございますから、信心のなか者からでも、あれは汚か奴ねと言われる様な事があっちゃならん。そう言う事では、神様の顔に泥を塗る様な事になるという自覚を持ってです。
 中にあるものを出さんと言うのは、如何にもなんですけれども、それに取り組ませて頂くと同時に、そういういわば御用さしては、愈々いけないと言う事を感じます。今度あの、御本部参り致しました時に、弘子さんと末永さんと、移り変わりに行っておりましたが、あちらで偉い先生のお話の中に、熊本の元県知事の秘書課長をしておった或方が、東京でかどっかででしょう、そのまぁ心安うなられた。実に態度が素晴らしい。実に人間が立派である。
 よくよく聞いた所が、金光様の御信者であると言う事を聞かせて頂いて、その方を通して、金光教の信心が、どんなに素晴らしいかと言う事を感じたと。たまたま岡山におられたから、金光の御本部に一遍参拝させて頂きたいと言うて、本部教庁でその事を話された。いわゆる竹内先生の事なんです。だから金光様の御信心を頂いておればです、いやそれがないかというと、そんなら竹内先生だって、真実割って見りゃない事はなかろうと私は思うのです。
 それをそこに愈々、実意丁寧をもって慎んで、言うなら謙虚にそれを態度に出していかれる。そら皆さんもご承知の通りです。あのなんて言うですかね、あの行儀の良さと云うでしょうか、本当に人間的なその魅力を持っておられる方なんです。信心の無い人でも、それを感じるくらいなものがです、私共の信心の上にも、頂けてくるように、段々ならなければばいけないと、私は思うのですよね。
 昨夜、御造営成就信心生活運動とは、大体どげな事だろうか。そして私が又説明させて頂いたんです。昨日十三日会であれだけ沢山の人が集まっておる所で、私は御造営について、みんなそれぞれがです、御造営と言う事について、どれだけ信心をさせて頂いておるかと。成程あれだけ沢山の人達が一人だって御造営成就、ほんならまだお供えしとらんと言った様な人はおらん。
 皆お供えもし又一生懸命、その事をお供えさせて頂く事も思いよる。所がそれが信心御造営成就信心生活運動じゃないて言う事。御造営に寄与しておる、奉賛しておると言う事は言えましょう。けれどもそれが信心生活の上に、その運動になってこなければならないと言う事。例えばほんら総代さん方が毎朝こうやって、御造営が始まってから、特別のお届けがあり、特別のお願いがその事についてあると言う事なんかは、まぁそれはちょっとした運動なんです矢張り。
 お広前中心じゃ総代さん達が、その事に一つになって願い続けていかれると言う事は。ほんなら誰彼と、一人一人言うならです、あの人もその為にわざわざ、あれだけの信心しよんなさるという人でも、いくらもありましょうけれどもです。ほんなこというならば、あれだけの者が、一人一人がです、発表が出来ない筈はないと思うんですけれども、実はそういう発表の出来るだけの信心を、御造営が始まってから、これだけの事の信心をさせて頂いとりますという人は、まぁ無かったと言う事です。
 最後に正義さんが、私は一つそれと反対に、私の失敗談を聞いて貰いますと言うて発表しよりました。あの最後をなんか皮肉った様なものを私感じたんですけれど。ほんとに御造営が始まってこのかた、もう自分の私的なものは、もうそれこそ百円の金でも割って使うように致しとりますと。(ほんなごと、椛目を賑かした、)自分は勿論、そうじゃろう、でなかったら、あれだけの御用は出来んと私は思うです。
 所が一番下の娘がどうしてもそのピアノを買うてくれとこう言う。家内ともう泣こうごとしてから、こればいっちょ買うてやって下さいちいうごたる風に言うもんじゃから、とうとう負けてしもうてピアノを買うた。本当に神様に相済まんと思いながら、結果はピアノをま持って来た。そこでほんならピアノを習いに行く様になった所が、そのピアノを習いに行く途中で、自転車で落ちてですとうとう腕折ってしもうた。
 もうほんとに、この神様の厳しさに恐れ入りますと言うて、最後にその皆さん聞いて居られた方も沢山おられましょうが、そう申しております。さあ腕折っとるじゃピアノも習われんじゃないか。(今は、椛目のじぞうじぞうと、どういう不心掛けの事かと、椛目の中心と、いわば言わねばならん。いわゆる、菊栄会の会長としての、)いわばそのピアノを制していかなければならないお前が、可愛い子供が言うたぐらいな事でと、神様は厳しいこう家族の者にまで教えて居られるという気が致します。
 それで私は申しました。正義さん信心のない家内でも子供でも、今例えばこうやって一緒に、ご飯ならご飯でも頂く時に、もう今お母さんな本当に(ごじゅうのことでも、)一生懸命、言わんのと言うてその、秋山さんが子供達の前に、ある時に話したように、その事を話よったらもう感激して、どうにも出来なかった。それを聞いとる子供達が、その晩から、改まっておかげを頂いたと言う様な話をしておるようにです。
 お父さんがね、今本当にもう仕事の事も一生懸命ばってん、御造営と言う言葉考えとるけん、もうこれに一生懸命やけん、僕達も皆一つお父さんに協力してくれよと。と、例えば子供達にも家内達にでも、それが言える位な私しゃ信心を頂きたい。僕は、今日はお休みじゃけん、と言うて、お父さんが一遍、御用の所に現場に連れて行こう。こういう立派な御造営が出けていきよるとぞと。
 これが愈々心磨きの道場ぞと。信心の稽古をさせて頂くお広前が、こうして出来よるとぞと。お父さんなこの事で今一生懸命なんだ。さぁ皆もいっちょ協力してくれよと言うてです。はぁほんに子供ながらでも、女子供でもですお父さんがこれだけ一生懸命なっとるんだから、この事に協力しなければおられないという、さあそれが私は運動だと私は思うです。私は夕べそういう風に説明しました。
運動とはねその働きを運んで行くのだと。その働きが、運んで行くと言う事が、出来ていないと言う事がです、私は今日までもう話が始まって、もう一年七八カ月になりますか。そしてああいうもう、言うなら半ばのものが出来上がった。形の上ではもう九分九厘出来上がった。それもこれから又五カ年計画とか三年 計画とかと言う様な事でですたい。あれがほんとの御成就になる迄の働きと云うものがならなければならんけれども。今日迄は、そういう運動らしい運動というものもないないにです。
 ここまでおかげを頂いてきたと言う事は、私は考えようでは、椛目の底力だと思うですね。そうでしょうが。そこまで一生懸命にならんだんに、いわば大半の事が出来ておると言う事なんです。ですから皆がその気になって、そういう一つの運動が展開されてくる。なされる運動がです、家族からまた次から次に、動き運ばれると言う様な事。しかも焦点が御造営成就と言う事に焦点に置いてのです、信心生活運動が展開されてくる時にです、こりゃ成程初めからそういうものが展開されて行くならです途中からです。
 これがさあこれから皆のそういう運動を起こそうじゃないかという働きがです、あると言う事は、私は椛目の底力だと思うです。御造営が始まるそこからそう言う様な働きがさあこれからの運動というのがです、もういわゆる運び動かして行くと言う事はです、これが神
   (途中切れ)